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御本尊縁起

 聖観世音菩薩の縁起は、鳥取城と町割が大規模に行われた池田備中の守の頃{慶長6年(1601)〜元和3年(1617)}城山・旧称算の岩窟より霊光を放ち不思議なことがしばしばおこたった。そのもとを探ってみると、霊光を放つ端麗な聖観世音菩薩像が現れ、行基の御作と称せられた。ただちに手厚く、城中の御櫓に安置されたが、尚も霊光を放つので、観音寺に移し「御城中・お守り観音」と敬い、御宝前に城内安全の祈願を施した。
 上町の現在に移ってからは、藩の祈願寺となり「御城下御守り観音」として寺格の高い「八ヶ寺」に列した。
 ところが安置される壇が移るたびに大きな寺の御本尊となられるので、人々からは「出世観音」と崇められた。
 庶民から手厚く信仰されていたことを物語る事件が藩の記録に残っている。藩祖光仲公がことの外この観音に対して信仰が厚かったのと、天正9年(1581)秀吉の包囲作戦、飢餓状態のもとで防戦した城山より、奇瑞放光をもって出現された観音さま、例年6月17・18日の「観音会式」には、老若の善男善女が寺内を埋めて賑わい、町目付は足軽を派遣して警備に当り、藩の祈願寺であるので、日暮以後の参詣は禁止されていた。天明4年(1784)6月の「観音会式」に夜の参詣を黙認したことをもって住職に「遠慮」の処罰が仰せ付けられたが、文化元年(1804)の6月の「観音会式」から、夜の参詣が許された。その理由として、農事相仕廻夜分多数参詣候に付夜の参詣を許す。郡部農民は日中は農事に励み、日没後仕事を片付けて、夜分に参詣する。参詣者が境内を埋めつくす盛儀であったと記してある。
 霊験あらたかなることからこの観音さまは「因幡観音霊場」一番札所、「中国観音霊場」三十二番札所のご本尊となり、御詠歌「曇りなき補陀落山の月影は、大慈大悲の慈眼なりけり」と詠唱されて善男・善女の手厚い信仰をあつめている。


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